古いタイヤの横に鳩
2020年12月26日〜12月28日

 

自分にしかできない写真表現とは何かを探し続けてきました。
奇をてらった作為や演出があるものではなく、身近な景色をおさめた写真を集めて、想像を超える、誰も見たことのない写真表現をできないものだろうか。
そんなことを思ってきました。

カメラの歴史は180年余りしかありません。
その中で写真は、瞬間や時代を記録する資料的な機能を果たすとともに、芸術的地位を向上させ続けています。
ウジェーヌ・アジェから始まる都市や町を舞台にした写真の系譜は、スティーブン・ショアらのニューカラーを通り、
ホンマタカシ、金村修らポストモダンの作家が、新たな表現を展開し続けてきました。

私は普段、富山を撮っています。
カメラを抱えてキックボードでいつもの場所を巡りながら、シャッターを切ります。
写真に残しているのは、明日にはなくなってしまうんじゃないかと予感させる、あやうい風景がほとんどで、私が住む町の近くにはそんな場所がたくさんあります。
ほんの少し前までは人々の営みがあったはずなのに、世代交代や産業の衰退・変化などを理由に、人が去って忘れられようとしている場所。
そんな荒廃し、朽ち、風化しかけている景色を見ると、残しておきたいという衝動が湧き上がってきます。
それと同時に、新しさを求めるグローバルな時代となったことで、何もかもが変化し続けるめまぐるしさに息苦しさも感じています。
あらゆる業界において、ビッグデータが判断の物差しとなり、人はプライバシーだけでなく考えることまで放棄しようとしはじめました。
私自身、かつて抱いていたような未来への憧れは、スクラップ&ビルドへの拒否反応となりました。
だからこそ、今そこにある身近な景色を残しておかなくてはという義務にも似た感情に駆り立てられます。

ここに展示してある一つひとつの写真は、その場所が生きていたころ、あるいは死ぬ直前の記憶を留めています。
景色を断片的に切り取ったことで、被写体がよりリアルな質感をともなって感じるのは、写真の持つ力と言えます。

断片的な景色を見て、自分とは無関係と感じる人もいるでしょう。
しかし明確な場所を断定させない断片的な切り取り方であることが、誰もが持つ記憶の中の風景や、心の奥底に眠った風景に訴えかけます。
展示してある写真の群は、ここにある景色があなた自身の生活と地続きであることを突きつけてきます。
過去を思い出し、現在に向き合い、未来を描き想像するきっかけをつくるのです。

見終えた後、あなたの心にはどんな光景が浮かぶでしょうか。
展示してある写真の中に、それは存在しないかもしれません。
心に浮かんでいるのは、ほかの誰にも見えない、あなただけの光景です。